私からの伝言(2008.5 長野孔版社発行)

戦前、戦中、戦後を生きた信州人の聞き書き
私からの伝言 第4集
長野県高齢者生活協同組合編 2008年5月発行



畑作中心の村は戦時色で塗りつぶされ、多くの犠牲を払ってきました
白馬の名はね、春、苗代の時期になると、白馬岳の稜線に代(しろ)かき馬の雪型が現れる。
で、「代馬(しろうま)岳」と呼ばれたがいつの間にか「白馬」の文字に変わり、やがて「はくば」と
音読みされるようになったんだな。残雪に囲まれた岩肌が馬の形をしているから、ほんとうは
黒馬なんだけどね。
昔、ここら一帯は「四ケ庄」と呼ばれ畑作中心の農山村だったが、明治の三十年代から白馬岳
のお花畑と大雪渓が知られるようになり、夏山の登山基地として村の観光が始まったようだ
ね。大正時代には山岳スキーが普及し、そうした登山客や植物研究者のための宿として昭和
十二年に十六軒の民宿が正式に開かれた。いまのように四季を通じた観光が本格化したの
は、神城村と北城村が合併し(昭和三十一年)「白馬村」になってからだね。冬のスキー、夏は
涼しいところで勉強しようという学生やスポーツ合宿、避暑客、秋の紅葉…と、続々と増える客
の宿泊施設として、村の三軒に一軒が民宿を開き、それにつれUターンで家業を継ぐものやペ
ンション経営者の移住が始まって、人口は十年ごとに千人増えるという勢いだったがな。(現在
は九千四百人)。
私が民宿「マル七」を開いたのは三十八歳のとき。以来四十六年たつがね。いまでもこの囲炉
裏に薪をくべていると、私のじいさまが横座(主人席)に座り、反対側の水屋(主婦の席)にば
あさまがいて、長いキセルを囲炉裏の縁にぽんぽんとたたいていたのを思い出すね。私が生
まれたのは昭和に入る五カ月前のことだが、青春時代はこの村も軍事一色だったねえ。

軍人精神を貫いた父
「マル七」というのは家の屋号で、江戸時代に分家して私で八代目だな。昔はここらは麻の産
地で京都と取り引きしていたんだね。家も五代目までは麻問屋をしててね、この五代目のじい
さまが松本から桑苗を買ってきて苗を育てて売るようになり、地域にも養蚕が広まった。七代
目になる私の父は、旧制中学のあと群馬の安中蚕糸学校を出て丸子(現・上田市)で手広く蚕
種製造業をやってる家に一年間、丁稚奉公して蚕種を学び蚕種製造業を始めたんだよ。蚕種
というのはカイコの卵のことで、カイコを飼ってマユを上げ、蝶を羽化させ交配させて卵を産ま
せる。そのために建てたのが、この茅葺き屋根で総二階の家さ。一本柱が二階の天井まで通
っていてね、民宿に泊まった材木屋のお客さんがこの家をしげしげと見て「これだけの木材な
ら同じ規模の家が四軒は建つ」といっていたが、材木は持ち山から伐りだしたんだ。大正九
年、父が二十一歳のときだね。
子どもの頃、それこそ養蚕は盛んだったね。いろはがるたで「絹糸は第一の輸出品」とあった
が、日本が戦争に突き進む「富国強兵」の礎になったのさ。この家の一階も二階も蚕棚でうま
り、私らはその下で寝てたもんだ。
家が建ったその年、父は一年志願兵として高崎の第十五聯隊留守隊に入隊、帰郷してからは
蚕種の事業をしながらも在郷軍人として昇進を重ね、帝国在郷軍人会神城村分会長になり、
村の若者に軍事訓練するなど忙しくしていた。私の知ってる父は近寄りがたい神様みたいな存
在で、「ものは直角に置くものだ」「手紙をもらったらその日のうちに返事を書け」とよくいってい
たよ。
そんな父に召集令状が来たのは、日中戦争勃発一カ月後の昭和十二年八月十六日。そこに
は歩兵第五十聯隊補充中隊長として八月十八日昼に入隊とあり、入隊日に間に合うために
は、十七日に家を発たなければならなかっただね。昔から「一・九・十七後へ戻らず」という言
い伝えがあり、この数字の日の旅立ちは忌み嫌われていたんだ。母はそれが気になって父の
袖をつかんで、十七日の出発を押しとどめようとしたが、父はその忌み日に出征。それから一
カ月半後、父は中国河南省で戦死。三十九歳だったさ。在郷軍人の定年というか軍籍がなくな
るのは四十歳。あと一年おそければ父は死ななかったかも。
その三日前、学校の運動会で軍事教練の隊列行進を披露し、私はその中隊長になって先頭
で指揮をとっていた。先生が戦地の父に私の勇姿をみせたいと写真に撮ってくれたんだが…。
そのころは小学五、六年生の男子は伍長の軍籍にある教師に軍事教練を受けていたんだよ。
「日本は神の国だから、戦には神風が吹いて必ず勝つ」と教えられ、それをみんな心から信じ
ていたね。

勇んで入隊したが兵団の規律は乱れていた
当時の心情からすると、私の青春は暗黒だったね。旧制中学五年(いまの高校二年生)のと
き、学校で全員が甲種飛行予科訓練生を志願するようにといわれたんだ。敵艦に飛行機ごと
ぶつかってゆく「特攻」だね。私はもちろん父の敵を討ちたいと志願したが、視力が弱くてはね
られた。
そこで卒業後、こんどは陸軍士官学校を受験したんだが、肺門リンパ腺を患っていると、ここで
も失敗して小学校の代用教員になったんだ。そこには家内(郁さん)が高等科二年(いまの小
学五年)で通っていて、担任した二年生の組に家内の弟もいたんだなあ。『家庭訪問の元祖は
おれだぞ」ってよくいうんだが、担任の生徒の家、三十六軒を二カ月かかって訪問したよ。当時
は子守しながら学校に来る子もいたし、家の働き手になって登校しない子もいたから、そうした
家には何度も足を運んだね。
十九歳で受けた徴兵検査は「第一乙種」。ここでもすぐに現役招集にはならず肩身の狭い思い
だったさ。そんな私に召集令状が届き出征したのは終戦まで一カ月たらずの昭和二十年七月
二十日。嬉しかったねえ、この日を待っていたからねえ。「男子の一生は二十二、三歳、それ
だけの命」と思っていたから戦場で死ぬことは怖ろしくなかった。
私が配属されたのは、原隊が鳥取にある突兵団で、本土決戦時に皇居のある帝都の西を守
るのが任務だったんだ。配属場所は神奈川の国府津。そこに行く途中の横浜駅で、一面焼け
野原になった市街をみて「これは勝てない」という気持ちがしたね。それに加え、入隊時に私ら
六人の新兵の前にぐだぐだに酔っばらった上官が現れ「いよいよ本土決戦だ。おまえらと一緒
に私も死ぬんだ」と訓辞したですよ。隊内はでたらめっていうかね、理由もなく殴りつけられた
り、物がなくなったり。あるときちよっとしたすきに私のゲートルがなくなっちやってね。その失態
を叱られはしたが、班長は自分のストックを出してくれたんだよ。その班長だってどっかからか
すめ取ってストックしてたんだ。みんながドロボーしあっていた。軍隊なんてものは惨めなもんで
すわ。
私の隊は学校を宿舎にして関東の各地を転々としてたな。毎日、敵の艦載機がぶんぶん飛ん
で来るがどうしようもない。兵隊は機銃の弾が当たらないように校舎一階の教室に挟まれた廊
下で右往左往していた。そのときふと、窓から奇妙な光景を見たんだ。樹の根本に、防空ずき
んだけが、ぎっしりかたまっているのさ。よくみると、子どもたちが肩寄せ合って伏せていたんだ
ね。私ら兵は校庭より安全な校舎のなかで逃げまどうばかりだったんだが…。この千代小学校
を兵舎にしているときに終戦になり、原隊の鳥取に向かい合流して解散になった。すり切れた
毛布十枚、米五升、缶詰二十個が支給されたが、私の家は農家なので米はいらないと、通り
がかった子どもにあげてしまったのさ。ところが、九月一日に帰郷した翌日、缶詰が一人あた
り十個ずつ配給になった。しかし、農家といえど米は供出してしまっているから食べる分がなか
ったんだよ。毛布や缶詰より米を持って帰ればよかったと思ったもんだわ。これが、私の四十
三日間の軍隊体験です。

戦争で受けた村人の傷跡を記録に
日中戦争に始まって大東亜戦争(第二次世界大戦=太平洋戦争)に突き進むなかで、白馬で
も多くの男たちが戦地に送り込まれていったんだ。一家の大黒柱もその息子も、兄弟の多い
家では五人、六人という家もあったそうだ。そしてその一割が戦死している。そのいっぽう、働
き手を失った農家には食糧増産のため小学生が援農に出された。中学生や女学生、家にい
る若いもんはみんな軍需工場なんかに動員されただね。紡績工場にいった私の同級生の女
子は、きつい労働と衛生管理の悪さがたたって肋膜になり六人も死んでいる。これなんかは戦
死以上のものがあるねえ。「私は何のために生きてきたのか」と自問することがあってね。その
答えといっちゃあなんだが「国の鎮め」という戦没者の記録を十年かけてまとめたのですよ(平
成七年発刊)。ここには明治以来の戦争で亡くなった二百十五人がおさめられていて、戦争は
二度としてはいけないという思いを込めています。この本の制作途中、従軍慰安婦や南京虐
殺が社会問題化して、その悲惨な状況を知り、いたたまれず筆が先に進まなくなったこともあ
りましたねえ。
もう一つ気がかりなのは、あの戦争のとき夫や息子を送り出した白馬の女たちはどうしていた
かです。今年は、その聞き取りをしてまとめたいと思っていますがね。
戦前には明治時代さながらのたたずまいだった白馬が戦後、観光事業を主体にするようにな
って、道路は拡張され、駅前にはビルが建った。民宿開業ブームで、たしかに生活は豊かにな
ったが、裏を返せばお互いが営業のライバルになり、近所の人が寄ってお茶を飲むということ
がなくなったのは寂しいことだね。
十年前の冬季長野オリンピックを契機に白馬観光はいま、下降線をたどっているよ。スキー人
口が減少していることに加え、オリンピックで整備された道路が、村を首都圏からの日帰りエリ
アにしてしまったんだ。お客さんの数はぐんと減って、ピーク時には年間三百八十万人を迎え
ていたが、いまは七割をきり、宿泊施設も百数十軒が廃業してしまった。
民宿で学生客を呼ぶための「三種の神器」ってものがあったんだよ。それはテニスコートと体
育館、マイクロバス。ところがわが家には、そのどれもない。静かに勉強する学生を受け入れ
てきたからね。その学生が社会人になり、ここを故郷のように思ってくれ、ときどき泊まりに来
てくれる。そうした常連客を迎えながら家内と二人、身体が続く限りこの茅葺き屋根の家を守っ
ていきますよ。

二○○八年四月取材(まとめ東誠子)





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