いろり火燃える民宿(1999.7.10 大糸タイムス)
 
白馬・小谷 この里にこの人あり
大糸タイムス 平成11年7月10日号
インタビュー記事



 かやぶき屋根といろりは日本人の郷愁を誘う。白馬村南部の東山山麓にある小さな集落 内
山で、かやぶき屋根を守り、かたくなにいろりの火を燃やし続け、「白馬らしさ、田舎らしさ」を
守り続けて、お客さんを迎えている民宿がある。(聞き手・大糸タイムス社 水久保節記者)

 −大きな家ですね。
 大正9年に建てられたものです。建坪は80坪あります。養蚕農家でしたので、いろりのある
家としては珍しく総2階造りです。2階も65坪あります。このような形の民家の中では、新しい
ほうなのです。今では、村一番の“おんぼろ民宿”ですが・・・。
 村には宿泊施設が850軒程ありますが、そのうちペンションなど洋風の宿が260軒ほどあり
ます。昭和50年代から急速に都会化され、閑村が一気に観光の村に変貌しました。
 −かやぶき屋根にいろりが似合いますね。
 今、かやぶき屋根やいろりがちょっと見直されています。白馬の良さや白馬らしさということで
しょうか。都会の人は、白馬に来て泊まるだけでは満足できないのでしょうか、ここに来ると田
舎を体感できるのだと思います。
 −いろりのある家はほんとうに珍しくなりました。
 白馬村には三千数百軒ありますが、昔のままいろりが残っているのは4軒だけと聞いていま
す。しかも日常的に使っているのは我家だけだと思います。
 −いろりに対してここまでこだわるのは何故ですか。
 昔はいろりの回りに、年寄りも、若夫婦も、孫もいて、一家団欒の場でした。お客さんも一緒
にいろりを囲んでいました。村の公民館長をしていたとき、“いろり”という事を盛んに言ったも
のです。“公民館は村のいろり”だと。
 それと終戦の年の9月1日、夜の11時頃、戦地から帰宅し、玄関の戸を開けると、祖父も祖
母も母も部屋から飛び出してきて、すぐに囲炉裏の火を焚きつけてくれました。その時の囲炉
裏の温かさは一生忘れることはできません。今、いろりの温かさが忘れ去られているのではな
いでしょうか。
 −かやぶき屋根の維持管理には大変なご苦労があるのでしょうね。
 かやぶき屋根の職人さんはまだいらっしゃるのですが、かやが無いのです。昔はかや普請
があり、集落内で順番に葺き替えをしていました。どの家でも秋になるとかやを刈って葺き替え
のために蓄えていたのです。21件あるこの集落のかやぶき屋根も年々減り、今は2軒だけで
す。
 −今、一年にどのくらいのかやを確保されているのですか。
 せいぜい二百束です。この家を全部葺き替えると、五万束ほど要るでしょう。一度に全部葺
き替えるのは不可能な事です。今では親戚のかやぶき屋根と1年おきに交互で部分補修をし
ています。
 −大変ですね。
 正直言って大変な事です。白馬のよさ、田舎らしさをいつまでも残したいのです。もっぱら観
光用という事にもなりますね。
 宿泊客は50歳から70歳の中高年者が多いですね。若い人が電話で予約を問い合わせて
きて、「農家ですが、いいですか?」と聞くと、「農家ですか。」と電話を切る人もいるのです。寂
しいですね。
 −公民館長はどんなきっかけで?
 戦後、青年団活動をやっていまして、34歳の時、村議会議員に推薦されて、一期で辞めた
年に副館長に命ぜられ、翌年から12年間、公民館長を務めました。公民館活動は大衆にあ
まねく陽を当てるようでなければならないと努力しました。日陰の草までと。
 −どんなことを?
 12年間に、特に力を入れてやってきた事は2つです。ひとつは村内めぐり、ふたつめは生活
改善による公民館結婚式です。
 まず村内めぐりですが、昭和40年代、村民が村内28集落をバスで巡るという企画が、意外
と受けたのです。この時代の村内の急激な変わりように村民自体が追いついていけなかった
のか、新しく村に来た人たちが、白馬の事を知りたかったのか−だったのでしょうか。
 2番目の公民館結婚式ですが、式場でやる結婚式は当初、家でやるよりは余計に人を呼ば
なくてはならなくなり、費用がかかると反対されました。しかし公民館でやる公営結婚式は、費
用も安く済み、家の中を準備する労力や料理の心配もしなくてすむので評判となり、私の在職
中に、486組が式を挙げました。春と秋に集中し、一日に4組やった事もありました。
 −戦後50年の平成7年には、村内の戦没者の事を記録した「国の鎮め」を発刊されま
したね。
 明治27年の日清戦争、37年の日露戦争、そして昭和の日中戦争、第二次世界大戦で亡く
なった村内関係者は215柱です。
 −どういうきっかけで?
 父親が昭和13年10月3日、北支(中国北部)で39歳で戦死しました。私が12歳の時でし
た。村の遺族会長を務めたりしてきたのですが、何か胸につっかえたままでした。父の供養
と、後世に戦争の事を残そうと思ったのです。
 始めたのは昭和60年でした。当初は戦歴と顔写真だけ載せる予定でしたが、それでもなか
なかはかどりませんでした。途中で、戦死者の遺族や親戚、知人を一人づつ訪ね、さらに思い
出も綴ってもらうようにしました。
 しかし従軍慰安婦や南京大虐殺がクローズアップされ、どう考えれば良いか分からなくなり、
しばらく全く書けなくなってしまいました。
 ある遺族に「父は被害者であり、加害者でもあった。もう絶対に戦争をやっちゃいけない!」
との悲痛な叫びに励まされ、10年かかってようやく発刊にこじつけました。
 世界では、今でもどこかで戦争が起きています。もう決して戦争に巻き込まれてはなりませ
ん。

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