平成7年7月我家を襲った豪雨災害(長野県治水砂防協会姫川支部)

平成7年7月 梅雨前線災害の記録―長野県白馬村
(平成9年3月 長野県治水砂防協会姫川支部 発刊 27ページ) 

 「うちの床下に水がついてきた。何とかして。」平成7年7月12日、まだ真夜中の午前2時す
ぎ、あわてふためき、かなきり声で隣の奥さんが飛び込んできた。前日から大雨振りだった
が、家の中に水がついて来るとは思いもよらない。急いで身支度をして外へ出てみると、裏の
道路は水が一杯で川同然、歩いていくと長靴の中に水が入ってくるほどの水量だ。下の家の
住人も呼び、数人で隣の家に入っていく水をなんとか食い止めた。
 我家も隣の家も集落の中間ほどに並んである家だが、上のほうの家はどうなっているのだと
上がってみると、どこの家の回りも水びたしになっているのに誰も起きていない。次々に起こし
てまわったが、そのうち1件はいくら大声で呼び出しても誰も起きてくれない。また1件は、入っ
た土間が水一杯で、何と長靴がぽかぽか浮いているではないか。何とか全戸を起こして、3時
間か4時間かかって、土嚢や土盛りで瀬を変えて、家に入ってくる水を食い止めた。
 その最中、私は少し離れたところにいて、現場に居合わせなかったが、あの恐ろしい悪魔の
「鉄砲水」があったのだ。これは水ばかりではない。土砂に混じってかなりの大きさの石も、流
木も、何もかも一緒になって突っ込んできたのだ。この鉄砲水をまともにくらったのが、私の家
の2軒上に住む従弟だった。まだ、私より少し若く、運動神経が機敏な男だったから、一瞬で
素早く反射的に逃げ、文字通り命拾いした。
 夜が明けてきた。雨はいっこうに止む気配が無い。瀬が変わったが、水は相変わらず容赦な
く押し出してくる。ようやく隣の地区から消防団員十数名が駆けつけてきた。懸命な水防作業
も、自然との戦いは容易に進まない。それでもどうにか、あちこちに瀬を変えて、人家へ突っ込
んでくる水は無くなった。
 主導権が消防団に移ったことと、多少の疲れもあって、家から少し離れたところへ廻ってみ
た。瀬が変わったら、今度はうちの土蔵に土砂がまともに突っ込んで、それから下の野菜畑が
まるで川原のように土砂で埋まっていた。かなり広い畑一面に水が溢れ、まさに開闢以来の大
洪水だ。こんな最上流の小さな水路。いつもちょろちょろ流れていてバケツに水を汲むのにも
時間がかかるような小川から、こんな大水がどこから出てくるのだろうか。それから下の田ん
ぼを見て廻ると、3箇所も、5箇所も畦が崩れ、半丈ほどに伸びた稲がだいぶ埋まってしまって
いた。
 7時、8時、大勢の人が集まってきて、だいぶ疲れも増してきた。近所の人たちが私の家に寄
ってきて、炊き出しが行われ、十人くらいずつ次々に朝飯のおにぎりにありついた。雨は止まな
いが、他所はどうだろうと軽トラックに乗って2kmほど離れた国道まで出てみた。姫川源流に
近い佐野沖の数十町歩の田んぼが一面水浸しだ。まるで小さな湖を見ているようだ。こんな光
景は生まれて初めてだ。太古は湖底だったと聞いたことがあるが、さながら有史以前の神城
盆地がこのようだったろうかと、妙な事が脳裏を駆け巡る。
 夕刻、再び国道へ出てみた。大町方面はどうだろうと青木湖のほうまで行ったが、大町のほ
うは通行止めで行かれず、鉄道も大町以降は全線不通との事。次々と伝えられる報道に驚い
ていると、白馬村はまだ軽微なもので、小谷村はもっとひどい状況だ。ヘリコプターで何十人も
が救出されたと伝えられた。
 国道は寸断され、鉄道は宙吊りなり、日が経つにつれ悲惨さが増してくる。それにしても人畜
に全く被害がなかった事は軌跡に近い。全く不思議なほどだ。母の実家が小谷村なので、何と
か連絡をと思い、電話をかけたのだが、どうしてもつながらない。30kmと離れていないのに、
すぐに行く事も出来ず、気持ちはあせるばかり。ようやく3日目の夕刻、電話が通じ、全員無事
に非難している事が確認され、何よりほっとした。



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