父のこと(未知の道15)
1982.3発刊 岐阜大ユース「未知の道 15」 

 私の父は厳しい人だった。私が12歳の時、支那事変で亡くなったのであったが、今でもその
在りし日の姿が目の前に浮かんでくる。軍人だったためもあって、日常の一挙手一投足が規
律正しく、いわゆる軍隊式だったように感じている。その一つの端的な例として、「物はすべて
直角に置け」というのがあった。家の中のものは何一つ直角に置かない訳にはいかなかった。
この通りにしておけばいつまでも整理整頓されていてすばらしかっただが、現在では箍がゆる
んでしまい、直角どころか、家中散らかり放題である。
 今とは時代が違って想像できないことだが、戦前までは兵隊さん至上主義の時代であった。
軍人援護という標語が全国津々浦々にまで貼られていて、学校でも家庭でも、何もかもが「兵
隊さんのおかげです。」という時代であった。父がある友人に話していたというには、「軍人援護
とは、兵隊さんから手紙が来たら、その日のうちに返事を書くことだ。」と言っていたそうだが、
軍人援護のみならず、現代でも胸を打つ言葉として、いつも忘れられない。
 父が亡くなって43年経った先日、ふとした縁で支那で父と一緒に戦った戦友の皆さんの会に
出る機会を得た。本当に父に会ったような気がして嬉しかった。もう殆どが70歳以上の方だっ
たが、話は尽きず、夜中の2時3時まで実戦談をしていたようだった。その方々に聞いた話に
よると、拳銃だけしか持たない軽機関銃隊の一員が、闇夜に敵味方入り乱れて、かくれようと
して入ったところが敵の陣地の中だった。そこには何十人となく敵兵が仮眠をとって寝ているで
はないか。拳銃で一人一人撃ち殺す訳にはいかず、すかさず敵兵の銃の先についている短剣
をむしりとって、3人5人と突き殺していったが、それではまわりくどいので、今度は敵兵の銃を
取り上げて殴り殺そうとしたら、後ろから上官に呼ばれて、大勢の敵兵に気付かれぬうちに引
き返したと聞いた。父もこのような戦いを支那でちょうど1年していたのだと知らされた。
 人生も半ばを過ぎた今、父の亡くなった年齢を20歳も過ぎて、父を知る多くの方々と一夜を
過ごし得た感慨は筆舌に尽くしがたいものがあった。今後この戦友会が何十年続いていくか知
れないが、私は一生出席させていただきたいと願っている。





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