マル七の歴史

1.マル七の歴史
 マル七の歴史をさかのぼりますと、正徳4年(1714)、現在の家屋より三軒上にある大屋家
(現当主 伊藤 俊晴)の四代目 伊藤 長三郎の二男 伊藤 七右衛門が初代となり、私で八代目
に当ります。その間、代々 七右衛門の名を継ぐ家系として300年の歴史を刻んでまいりまし
た。


2.母屋について
 現在の母屋は大正9年(1919)に六代目 多喜次と七代目七右エ門によって建てられたもの
です。それ以前の建物は、現在の母屋の北側(4227の1番地)にあり、現在の母屋の敷地は
畑でした。この辺りは東山の伏流水が湧き出てくる湿地であるため、床の高さを88p上げた
高床式構造となっています。一階が80坪、2階が56坪と農家としては比較的大きな建物で
す。

マル七の航空写真(平成7年5月19日撮影)

 我家は養蚕農家であったため、囲炉裏のある家としてはめずらしく総2階造りとなっていま
す。2階のほとんどは蚕室となっており、居住用では無かったため、一階の天井板がそのまま
2階の床という構造です。
 建てられて以来、外壁の修理や塗装はほとんどされていませんでしたが、平成11年(1999)
啄木鳥(キツツキ)の穴だらけだった外壁をラスモルタルで下地処理し、漆喰で塗り直すととも
に、板張り部分を補修し、木部は古材にあわせた落着いた色のステインで塗装しました。

3.建材
 建材は家の中心に位置するケヤキの柱二本を除いて、すべて我家の持ち山から調達された
ものだと聞いております。
 基礎の布石には、地面の湿気を土台に上げないといわれている村内飯森地区の戸谷石を
用いています。この戸谷石はその当時「飯森の地籍外には持ち出してはならぬ」という門外不
出のものだったはずですが、どのような手段で入手したものなのか、未だにわかっていませ
ん。
 土台は最も腐りにくいといわれているクリの木を使用。上がり框にはケヤキを使っており、狂
いやすいと言われているケヤキの一本物を高い精度で仕上げてあります。柱や梁も今ではと
ても手に入らないような太い木を、文字どおり適材適所に使用しております。

4.囲炉裏
 現在も火を燃やし続けている囲炉裏(ジロ)は旧家のものをそのまま持ってきたもので、二百
年以上も多くの方々に温もりを与えてくれています。昔は畑に出ている間、火を絶やさないよう
に、節の多い太い木(トッコ)を囲炉裏でくすぶらせていたものですが、北の端には縁が焦げた
ため一部継ぎ足した部分があります。囲炉裏の隅には、子供が囲炉裏に落ちないようにお守
りとして、まあるい石を置いてあります。

今も燃え続ける囲炉裏

 西側の階段上部は天井板が張ってなく、吹き抜けとなっていますが、囲炉裏の煙はこの階段
をのぼって屋根裏へ抜けるようになっていました。しかし階段の上り下りの際に煙たく、また天
気が悪いと煙の抜けが悪いため、平成2年に囲炉裏の上部の天井を抜いて煙突を設置し、煙
の抜けを良くしました。茅葺き屋根は囲炉裏で燻らせることによって長持ちすると言われてお
り、茅葺き屋根を維持していられるのは、囲炉裏を燃やし続けているお陰ともいえます。
 私が今でも囲炉裏にこだわり続けているのには、大きな理由があります。昭和20年7月20
日、最後の徴兵により18歳で入隊し、神奈川県国府津市(現 小田原市)で終戦を迎えました。
わずか42日間の戦争経験でしたが、9月1日夜の11時頃帰宅し玄関の戸を開けると、囲炉
裏端にいた母や祖父母が飛び出してきて迎えてくれました。その時の赤々と燃えた囲炉裏の
火のぬくもりが今でも忘れられません。
 囲炉裏の火には人々の心を癒し、なごませてくれる不思議な魅力があります。囲炉裏の火
と、立ち昇る煙を見ていると、自然と心が落着き、童心に帰るようなような気がします。今の時
代に忘れかけている大切なものを取り戻せるような、そんな不思議な魅力を持った囲炉裏をい
つまでも残していきたいと思っています。

5.建具
 御上(オエ)の廻りの腰高障子はすべて旧家から持ってきたものをそのまま使用しています。
障子は現在あるものよりもかなり目の細かいものを使用しています。座敷まわりの障子は新築
時のものです。特に奥座敷の書院障子は美麻村(現大町市美麻)の千見の大工さんが、狂い
を完全に取るために、雨だれの下で濡らしては干しを繰り返し、丸二年間乾かして作ったもの
です。2階の作戦室の書院障子は旧家のものをそのまま使っています。
 また2階の南側には、当時はまだ貴重であった硝子窓を使用しており、大正時代そのままの
歪んだり気泡の入った硝子が数多く見受けられます。
 玄関の戸は、大戸(オオド)といって、大きなスライド式の木製の戸の中に、人が腰をかがめて
やっと出入りできる程度の小さな障子の戸をつけた出入口でしたが、民宿開業時に格子戸とし
ました。
 縁側の雨戸は、明かり取りのない戸板でしたが、昭和47年頃、建替えや改築で不要となっ
た硝子戸の中で寸法の合うものを頂いてきて入れました。2階の雨戸は現在もまだ明かり取り
のない戸板を使用しています。

6.座敷
 座敷は前座敷、奥座敷の二室あり、来客や人寄せの際に、座敷にそのまま上がれるよう
に、前座敷に面して来客者専用の玄関があります。前座敷の押入れの襖絵は、旧家の座敷
の押入れのもので、明治時代以前のものと思われます。襖絵の内容は中国唐時代の杜甫(と
ほ 712〜770)が李白(りはく 701〜762)に送った『飲中八仙歌』です。

前座敷の襖絵

飲中八仙歌

 奥座敷はこの部屋の上部のみ2階が無く、高天井になっています。天井はこの当時の民家
には珍しい吊天井です。奥座敷の床の間は、普通の家の座敷は二間ですが、我家は二間半
あり、五尺七尺三尺という配置で、日本の代表的な真の床の間の様式となっています。床の間
の飾り戸棚の絵は全部で14枚ありますが、すべて世外伝次郎が描いたもので、大正13年の
昭和天皇の御成婚を祝って、「大正甲子御成婚記念」と記されています。中央の壷は、当家の
家紋を入れて、嫁 佳織のお父様が焼いて下さったものです。

奥座敷と床の間

7.馬屋(マヤ)、風呂場、便所
 家の西側は土間から続きで馬屋となっていました。しかし昭和38年に学生村の誘致により
民宿を開業するにあたり、大幅に改築しました。馬屋だった部分に八畳の客室を設け、階段を
北に移設し、階段のあった部分に東西に廊下を設けました。風呂場も据風呂桶式の五右衛門
風呂からタイル張りの五右衛門風呂(通称 東京風呂)に替え、脱衣所を設けました。またそれ
までは家の外に便所がありましたが、西側にあった井戸屋を道の反対側に移築して、便所を
増築しました。
 さらに平成2年(1990年)には、風呂を五右衛門式からボイラー式に替え、南西に増築して、
風呂場の拡大と、ボイラー室の設置を行ないました。また便所も便層を大きくして簡易水洗に
替え、外周を下見張りにしました。屋根も垂木を増やして屋根雪落下に対応しています。
 平成10年(1998年)には、馬屋部分の客室を私ども夫婦の寝室に改造しました。この部屋
の下は馬屋として、穴を掘って堆肥を入れてあったところを、そのまま部屋にしており、更に安
普請で床下の通風がほとんど無い状態であったため、基礎や束の腐食が進行していました。
私ども夫婦も年をとり、トイレや風呂の近くに部屋があった方が何かと便利であるため、民家
の再生を長く手がけている大町市の横山建工さんにお願いして、新建材を使わず、古さを生
かして部屋を造ってもらいました。
 また部屋の東側にあった2階に上る階段は今まで囲炉裏の煙突の役割を果たしていたので
すが、囲炉裏上部に煙抜きを設置した事もあり、2階から降りてきたところにお客さんが座って
いたのでは何かと体裁の悪いことも多いため、北側に新設し、矩折れ階段としました。この階
段は、階段と呼ぶよりはしごに近い急な階段でしたが、階段の新設にあたっては緩くして、上り
下りしやすいように踊り場を設けました。

改造前の冬の我家(昭和56年2月撮影)

8.お勝手
 お勝手も民宿開業時に大幅に改造しました。それまで半分は土間でかまどが二つありました
が、床貼りにして流しと調理台と作り付けの食器棚を設置し、西側に漬物部屋を増築しまし
た。柱だけ残して建具もすべて新調し、外壁もモルタル仕上げとしました。床下は食物を保管
するように室(ムロ)になっています。この時、屋根もかわら棒葺きのトタンに葺き替えています。
 さらに平成11年(1999)には老朽化した流し台を更新し、南側の廊下だったスペースまで台
所を拡張しました。給湯設備や食器洗浄機も導入して、衛生面を強化して近代化を図りまし
た。
水道は昭和28年(1953)北村だけ東山の湧水から竹筒で本管を引いた簡易水道が敷設さ
れ、現在の水道は昭和61年(1986)に完成しています。

9.各部屋名の由来
 上雪隠(カミセッチン)は来客用の便所として設置しましたが、ほとんど使われませんでした。
西側の土間の部分は風呂桶が置いてあったようです。平成11年(1999)には物置に改造しま
した。
 大工部屋は六代目の祖父 多喜次が器用で趣味で大工仕事をしていたため、仕事部屋とし
て使った部屋です。西側の2階の床や建具は、多喜次が自ら造ったもののようです。
 作戦室は昭和13年に戦死した七代目の父 七右エ門が、戦の計画を立てるために設置した
部屋です。
 機織部屋(ハタオリベヤ)は六代目 多喜次の妻 たけが、機を織るために使用していた部屋で
す。
 蚕室は蚕(カイコ)を飼っていた部屋で、現在は半分は物置に、半分は客室にしています。西
側2階中央の催青室(サイセイシツ)は蚕を卵から孵化させるのに使用していた部屋です。

10.茅葺き屋根
 母屋の屋根は茅葺き(かやぶき)で、船竭「り(セガイヅクリ)という工法をとっています。この
船竭「りという呼び方は私も今までしらなかったのですが、村内の青鬼地区が伝統的建造物
群保存地区に指定された際に、専門家の方が同工法を船竭「りと呼んだのを聞き、初めてこ
の名称を知りました。
 茅葺きはおよそ30年はもつといわれていますが、あまり年数が経つと草や苔が生えて見栄
えが悪くなりますので、我家は20年くらいの周期で葺き替えを行なってきました。最近では昭
和48年に総葺き替えを行い、平成9年に南側の中央を葺き替えています。茅は毎年秋に持ち
山の茅場から刈ってきて、蓄えています。
 近所の家は次々とトタンをかぶせたり、新築していますが、茅屋根の家は遮熱性が非常に良
く、夏はとても涼しいものです。茅屋根は呼吸する屋根といわれていますが、室内の環境を一
定に保つという意味では本当に優れた材料だと思います。茅屋根の下はオンガラ(麻の皮を剥
いた芯)で葺いてありますが、これは建築当初からのものです。
 以前は近所同士で茅を貸し借りして葺き替え時の大量の茅を工面したものでしたが、茅葺き
が少なくなった現在では、茅がなかなか集まらなくなり、また職人も高齢となってきたため、今
後の維持管理が課題となっています。

屋根の葺き替え風景(平成9年6月撮影)

葺き替え時の屋根裏での針受け作業

 また、近年冬場の暖房が以前より強くなってきたため、暖房で屋根の雪が滑り落ち、軒先で
凍ってしまう「すがもり」に近い現象が発生し、雪解けとともに凍りついた茅を抜き落としてしまう
事が多く、春になると必ずといってよいほど屋根の補修をしています。茅を抜けにくくするように
職人さんが鉄筋を入れたり色々と工夫してくれているのですが、なかなか状況は改善されず、
出来るだけ凍ってしまう前に雪下ろしをするよう努めています。
 南側の下屋根は建設以来、杉を板状に割って葺いたトントン葺きでしたが、屋根の中にスズ
メバチが巣食ったり、風化が進行していたため、平成11年(1999)に銅板四ツ切り一文字葺
に葺き替えています。

11.土蔵
 母屋の東側に位置する土蔵は、雪国独特の雪囲い式の構造になっています。通常の土蔵の
外側に三尺張り出して柱を立て、雪除けのための空間を設けています。柱の間には貫を通し、
ここに稲藁の束ねたものを掛け、雪が舞い込まないようにしていました。空間には屋根を葺く
ための茅を蓄えています。

土蔵を南東側より望む

 なまこ壁の外壁は通常四角形ですが、この土蔵は六角形の組み合わせであり、凝った造り
になっています。
土蔵の屋根は板葺きでしたが、昭和30年代にトタンに葺き替えました。近年、雨漏りが多くな
ってきたため、平成10年(1998)に葺き替えを行ないました。
 平成10年(1998)に土蔵の屋根の葺き替えを行なっていたところ、屋根裏から意外なもの
が出てきました。それは全長456pもある細い雑木の棒の両面を削って、ぎっしりと文字の書
いてあるものでした。初めは片側だけはっきり読めたので、一面だけと思っていたところ、別な
面(こちらが表と思われる)に何と104文字も書かれていました。反対の面は字の大きさは同じ
くらいですが、49文字書かれていました。
 お経の引用と思われますが、参考までに全文を記しておきます。(○印は読み取れない文字
です)
表と思われる面
六悲大名稲吉祥○○樂人○設吉祥句救齋○苦者○○○若雜○○○○○遊藏地臓大悲○○
○處畜生中化作畜生形教興大智○○発○上心相逢藤喜齊珠山妙壽大姉正當請浄本愁之辰
依之○追膳三寳供養是妙智力○頽悟興生早證佛果者○○
裏と思われる面
願以此功徳普及於一切我等興衆正皆共成佛道明治弐拾壱年旧八月十四日造立施主人内山
耕地伊藤七郎治造立之
なお土蔵2階の棟札に相当するものには、次のように記されています。
表面と思われる面
○(大きな梵字) 四 海 献 水
裏面と思われる面
棟槧今上皇帝睦仁天王御宇大政官八局泰平當困大宇長野縣權令楢嵜寛直殿時代安曇郡神
城村 明治十一年寅四月大安日
造立人○代伊藤 七郎治 伊藤 梅吉
杣木挽兼 大田 助十
大工 長澤 清八
 ここで不思議なのは、細い棒と棟札は両方とも土蔵の造立を記したものにもかかわらず、棒
には明治21年とあり、棟札には明治11年と、年が10年ずれていることです。
 また、この土蔵の南の日当たりの良い土手には、大正初めと聞いていますが、五代目の伊
藤 七郎治(寺子屋師匠 大正4年没)が、今の信州新町から苗を貰ってきて植えたというマダケ
が生えています。白馬村内で竹が生えているのは、同じ内山のイナバという家の下と、野平と
我家だけなので、毎年七夕(当地は1ヵ月遅れの8月7日)になると多くの人が竹を貰いに訪れ
ます。

12.四季の外観
 春 雪解けとともに庭には福寿草やふきのとうが顔を出します。4月の中旬には畑の北側に
ビニールハウスを建て、苗床で稲の苗を育てます。畑の南側まで出ると白馬三山が一望でき、
雪形(山の雪がとけていく時、残雪または地肌が描き出す形)を見ることもできます。

春 福寿草とマル七

 夏 庭の畑から採れたての野菜を食べることができます。日中は日差しが強くかなり暑い日
もありますが、家の中に入るととても涼しいです。夜はぐっと気温がさがり、真夏でも半袖では
肌寒い日もあります。

夏のマル七

 秋 10月中旬には白馬岳に冠雪が見られ、10月末には里に雪が降ることもあります。雪と
枯れ木と紅葉と緑という4段紅葉を見ることができます。

秋 白馬三山とマル七

 冬 1mを越える積雪があり、スキー客がたくさん訪れます。屋根の雪下ろしは一冬に1〜3
回くらい行います。茅葺き屋根には大きなつららがたくさん出来ます。零度以下の真冬日が続
くことも多く、最も寒い日には気温が −15℃くらいまで下がります。

冬のマル七

13.民宿の開業について
 我家は信州学生村の誘致により民宿を始めたことは前述したとおりです。学生村の起こり
は、昭和35年、現在の下伊那郡 阿南町 新野高原で、老人クラブが、都会の受験生に夏休
みの間だけ、農家のお座敷を半ば奉仕的に提供したことに始まります。
 白馬村ではこれより2〜3年遅れて、当時若くやり手だった太田新助村長が、全村を観光で
うるおすために、東側山間部の辺地3地区を信州学生村ということで、民宿を開業するように
勧めたのでした。
 私もこの村長さんに強力に意見をいただき、勉強に来る学生は紹介するから、受入れ体制
を整えなさいということで、昭和38年の夏から営業を開始するよう、この年の田植え明けから
準備を始めました。
 まず台所、洗面所、風呂場、トイレの改造に入りましたが、家の中で最もお金のかかる所で、
大工さんに頼んではみましたが、次々と追加工事が増えて、仕事は手間取るし、お金はかかる
し、開業前にもううんざりしてしまいました。そして、私はこの工事中に病いで寝込んでしまいま
した。
 大掛かりな改造工事もようやく終わり、私が病床にあっての民宿開業となってしまいました。
今まで養蚕と農業で生計を立ててきた私たちが、慣れない客商売を、それも一家の大黒柱で
ある私がいない中での民宿開業です。とうとう家内もシーズン中に倒れてしまい、何人かの学
生さんをお断りするという、散々なスタートとなってしまいました。
こんな中で、私のこころの支えとなり、生き甲斐だったのは、学生さんとの文通でした。この当
時の手紙を今でも読み返しては懐かしんでいます。

玄関で家族と

正月 囲炉裏端でお客さんと

 私は我家に来て下さるお客さんは、本当に良い方ばかりだと常々思っています。また一度来
てくれたお客さんは必ず二度三度訪れてくれます。人とふれあうことはすばらしいことであり、ま
たお客さんも私どもとの会話をとても喜んでくれます。
 清水の舞台から飛び降りた気分で民宿を始め、その後もいろいろ苦労はありましたが、現在
なんとか生計を立てて行けるのも、民宿をやっていたからこそのものであり、民宿が開業出来
たのは、この大きな家があったからこそと、心から感謝しています。

平成25年 8月
伊 藤 馨 


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